佐藤柔心斎
王樹金 老師から形意拳を習う!
佐藤金兵衛 翁の日記を整理していたら、昭和36年(1961)、9月2日に次のような記述がありました。「早朝稽古する。第七を習う。形意拳、劈拳を習う。」とあります。王樹金 老師から、この日、はじめて劈拳を習ったことがわかります。第七は、八卦掌7本目だと思います。さらに、昭和37年(1962)、10月11日の日記には、「形意拳、崩拳に入る。」とあります。劈拳を習ってから、崩拳を習うまでに約1年ありますが、この間、王樹金 老師は台湾に一旦帰省し、翌年、再来日していることが、この日記からわかります。また、早朝は5時の一番電車で代々木の明治神宮へ行き、午前8時頃には稽古を終了し、その後、診療に入るという厳しい生活を続けていたことがつづられています。そして、このような王樹金 老師からの武術修業を足掛け7年余りもつづけ、ほぼその全伝を習得したことが佐藤金兵衛 翁の日記に記述されています。
佐藤金兵衛翁の形意拳の系譜
佐藤金兵衛 翁が形意拳を最初に学んだのは上記のように王樹金 老師からですが、その後、裴錫栄 老師から河南派の形意拳を学び、当道場には形意拳の河北派、山西派、河南派の形意拳が伝えられ、現在に至っています。岳飛から始まるという形意拳の流れは、姫隆風(姫際可)が終南山で神仙に出会い、岳飛の拳譜を授けられ、工夫すること多年、その奥妙を悟って形意拳を創めたといわれています。姫隆風(姫際可)以後の主な系譜は、曹継武、戴竜邦(山西派・河南派)からはじまり、張占魁、王樹金、佐藤金兵衛と王向斉、 王樹金、佐藤金兵衛という系譜があります。また、別の流れは馬学礼(河南派)、張志誠、李政、張 聚、買荘図、袁風儀、廬嵩嵩、裴錫栄、佐藤金兵衛という流れです。
形意拳の特徴
形意拳は佐藤金兵衛 翁の最も好んだ武術の一つで、豪放で強い破壊力があり、その特長を形意拳講義の本の中で次のように言っています。「形意拳は人の守りの堅いのを攻め、人の剛に克つことにあり、進んで又進み、退いて又進むのである。」これを見て形意拳を習ったことのない他派の拳法家は「形意拳は進むを知って、退くを知らず」と言っているが実際はそうではなく、足が退く時でも体の姿勢が前敵を気で制圧しているのです。相手は退くを見ないうちに、その進むのを知って退くことがないと疑ってしまうのでしょう。
形意拳はその破壊力に特徴があり、形である外、手、身、足(外三合)と意である内、心、気、力の一致(内三合)の形、意が互いに融合、バランスを取り合って一致した(六合)時に発する勁(ケイ)は、表面を傷つけることなく、敵の根を制し、内部を破壊するほどの威力を持っています。佐藤金兵衛翁も「柔と拳と道」のなかで、私の胸に軽く拳を当てて、フッと押された時のショックは30年たった今でも心に残っていると述べ、師である王樹金老師には、発勁(ハッケイ)を受けたその日のうちに入門の許可をもらっているほどです。私の小学生の頃、道場では形意拳の拳を一つにつき、300回以上稽古して、額から滴る汗で足がとられ、何度も滑りそうになったことを覚えています。
佐藤金兵衛 翁が最も好んだ武術のひとつが形意拳です。前回、「佐藤金兵衛翁と形意拳」のブログで、佐藤金兵衛翁の形意拳との出会い、武術遍歴、形意拳の特徴を書きましたので、今回、その第2弾として、佐藤金兵衛 翁の形意拳の演武の写真を掲載します。
上記の写真は1985年(昭和59年)にブルータスのスペシャル号のボディーワーキングに掲載された記事の中のひとこまです。「武器としての太極拳」、サブタイトルは「健康法だけでない敵を打ち倒す術としての紹介、美しさには強靭さの裏づけがある」という特集記事の中のひとつです。いずれ、本ブログでも今回の写真以外にも、よいものがあれば取り上げてゆきたいと思います。
上記の写真は右足にて敵の肘を蹴り上げて、同時に左拳で上段を突いた瞬間をとらえたものです。これは形意拳の基本になる五行拳を元にした連続技のひとつである八勢の中のひとこまです。特に左手は、形意拳の基本ともいえる崩拳を用い、同時に右足蹴を行い、敵を一撃で倒す技です。特に、この写真のように踵を使って蹴り出し、拳は縦に握って打ち出すのが形意拳の特徴です。
形意拳は一見地味に見えますが、そのなかに恐るべき一撃の破壊力が隠されています。その力は基本となる五行拳を繰り返し稽古することで、誰にでも身に付けることが可能なのです。
形意拳とは・・
形意拳は、八卦掌、太極拳と同じく内家拳に属す、中国武術で、陰陽五行説を背景にした5種類の母拳=五行拳(金=劈拳、水=鑚拳、木=崩拳、火=炮拳、土―横拳)を基に、それをより精妙なものとした、十二の動物の特性をなす象形拳=(龍、虎、猴、馬、黽、 鶏、鷂、燕、蛇、タイ、鷹、虎、熊)からなる。連続技としては五行連環拳、八勢、四把、十二紅錘、雑式捶などがあり、 組手には五行砲対練、安身砲がある。
王樹金 先生について
王樹金 先生は、我が国に正統の中国拳法を正式に伝えた最初の人であり、その功績 は日本の中国拳法史に特筆されるべきであると父はいっています。王先生が書かれた入門 案内によれば、少年時代に張占魁(号、兆東)先生に形意拳を学び、李存義、蕭海波の両師伯に形意拳、八卦掌を学んだといいます。張占魁 先生が亡くなられたので、王向斉 先生 について大成拳椿法を学び、その後、国民党と共に台湾に移って台中の陳峻峰(伴嶺)先 生について正宗大極拳を学んだといいます。この陳伴嶺 先生はもと南京にあった中央国術館の副館長であり、国民党の重鎮でもあったといいます。各種の拳法の研究にも精しく、著書も多いといいます。また、王先生は中国道教の一派である「一貫道」の第三位の幹部 でもあったといいます。父がよく食事におつれした時も宗教上から肉、魚食をしないので、イナリ寿司やのり巻、きつねうどんなどを一緒に食べたそうです。
形意拳は姫際可、字は隆風(明朝万歴~清朝康煕)が終南山で異人に会って岳飛の拳 譜を授けられ、工夫すること多年、その奥妙を悟って形意拳を創めたといわれています。 その系図を示せば以下の通りとなります(関係者のみ)。
岳飛、異人、姫隆風、曹継武、馬学礼(河南派)、馬学礼、張志誠、李政、張 聚、買荘図、袁風儀、廬嵩嵩、裴錫栄、佐藤金兵衛
また、別の流れは、
張占魁、王樹金、佐藤金兵衛 となるといいます。
父が聞いた王先生のお話では、少年時代に晩年の張占魁先生の所へ入門したとき、張先生が「形意拳を一通りおぼえるまでに5年かかる。自分も年老いて体力も衰えた。あと5 年ほど教えられるだろうが、それから先はどうかわからん。お前で最後だ。もうあとは弟子はとらん」といって、鎖門したといます。王先生は、張先生の最後の弟子となったとい います。その後、張先生がなくなられてからは大成拳の王向斉先生について修業されたそうです。
父は、王樹金 先生が昭和三十三年に来日されてから、あしかけ八年間、先生から 直接指導を受けられたそうです。渋谷の桜ヶ丘の木造アパートの一室におられ、精進料理 を作って自炊されたそうです。当時は適当な道場がなかったので、明治神宮の林の中で早 朝まだうすぐらいうちからほぼ二時間ほど稽古して帰り、朝食をすませてから錦糸町の都立墨東病院の婦人科に通勤したそうです。野外の稽古ですから雨が降ったり雪になればできなかったりと苦労されたそうです。王先生は八年も日本にいらしたそうですが、日本語 は「アリガト」と「サヨナラ」だけだそうで、自動販売機で切符を買って板橋の拙宅にはよく来られたといいます。二年ほどすると日本人の入門者があり、三村信之医博だそう で、その他、台湾からの華僑の方々数人だそうです。父は、当時は無給の研修生で、今でいうアルバイトで家族を養い、その上、王先生の生活費、年2回ほど台湾に帰る時の切符 の手配等まで負担したので、経済的にも時間的にも大変苦労されたそうです。王樹金 先生 の形意拳と大成拳椿法は、張占魁 先生、王向斉 先生に習ったものだそうです。